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ミラーレスの液晶モニターのチルトに見る小さな工夫、大きな向上

 ソニーのα6000や6300でモニターとファインダーの切り替えをAUTOにしておくと、ファインダーを覗いていないのに影や指の動きで不用意にモニターからファインダーに切り替わってしまい、イラっとすることがあります。
仕方ないので、メニューから切り替えのAUTOを外して、ファインダー使いたい時はまた戻すという面倒な状態でした。パナソニックのGX7等はファインダー脇に切り替えボタンがあり、さっと切り替え出来ます。

 ところが、カタログやいろいろなレビューを見ても書かれていないのですが、α6500はモニターをチルトするとファインダーに切り替えのAUTOが自動的に外れて、モニターのみになります。チルトを戻してファインダーを覗くとちゃんとファンダーに切り替わるのです。これで使いやすくなりました。

 この機能、先に発売されているパナソニックのGX7mkIIで採用されている機能で、たぶんこれを参考にしたのでしょうね。ライバル機のいいところどんどん取り入れるのはいいことです。

 実際にストリートなどで使っている人にはこの便利さ分かってもらえると思いますが、レビューなどにはあまり取り上げられていません。

 センサーは違いますが、どちらも5軸手ぶれ補正で、この2機種は僕の中ではガチンコです。使い分けをどうしようか悩みますが、レンズが小型で取り回ししやすいGX7mkIIと、センサー性能と防塵防滴が強みのα6500、この2台がしばらく僕の主力カメラになりそうです。

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take か make か

今年2度目の個展が終り、次回は秋の予定です。

でも、もしかしたら夏に小さな展示をするかもしれません。

今は北海道の撮影プロジェクトでの写真を鋭意現像中です。

これが結構しんどいのです。

何故か。それは1枚1枚作り込んで行くからなんです。

写真は「take か make か」。東松照明さんはmakeと答えたそうです。

あの有名な「太陽の鉛筆」はネガが3枚重ねだったことは現在では有名な話しです。

僕もmakeしてます。

いや、コントロールと言った方が近いかもしれません。

写真はそのものを写すものではなく、自分の感情の投影だとするならば、そのように仕上げるのが作家の仕事だと思っています。

僕はジャーナリストではないので、「事実」を伝えるより「感覚や感情」が伝わるといいなと思っています。

文章でもノンフィクションはフェイクが入ってはいけないと思うのですが、例えば歴史小説なんかは「歴史」を題材とした「小説」なわけで、一見史実のように錯覚しますがフェイクや誇張が多分に入り込みます。

僕の写真も目の前の事象を写していますが、「仕上げ」と称してフェイクや誇張が入ります。

だから「take か make か」と問われれば、厳密にはmakeでは無いにしても僕もmakeと答えることになるでしょう。

今、東京都写真美術館で開催されている山崎博展を最近見ました。

あれは一見「make」のように見えて実は「take」ですよね。そこが凄いところです。

植田正治や森山大道は「make」ですよね。絶対非演出のリアリズムを唱えた土門拳は「take」、木村伊兵衛も「take」。

どちらがいいか悪いかという問題ではないのはもちろんですし、作品の強さの問題でも無い。

作家の生き方と言うと言い過ぎですかね。

僕は最近まで自分は「take」だと思っていたのですが、改めて考え直して「make」だと思うようになりました。

だから何なんだという結論は無いのですが、自分の作風やこれからの在り方を考えるきっかけになりました。

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